豊臣秀頼その2

秀頼が誕生して一番とばっちりを受けたのが当時秀吉の後をついで関白になった豊臣秀次

秀吉の甥にあたる人です。高齢になって子供ができない、できても鶴松のように夭折してしまう秀吉は跡取り秀次しようと考えました。秀次は1591年に関白の座を譲り受けます。1593年に秀頼が誕生すると秀吉にとっては逆に邪魔な存在となるわけです。これもいろいろ諸説がありますが、秀吉に謀反の疑いをかけられ多くの家臣とともに切腹に追い込まれます。

 

秀頼は関ケ原の戦い当時はまだ数え年8歳。一般的に関ケ原の戦いは豊臣対徳川と思われてますが、一応は豊臣家臣同士の戦いということでどちらの味方にも付きません。

結果的に家康が勝ち豊臣直轄の領土222万石から65万石に減らされてしまったので、この辺りは家康してやったりですね( ´∀` )

 

そして1614年、方広寺の鐘の事件をきっかけに大阪冬の陣となります。

 この事件は豊臣家が再建した方広寺の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれ、縁起が悪いと言いがかりをつけて戦になります。

豊臣方総兵力10万に対して徳川方は総兵力20万を動員しますが、難攻不落の大阪城を攻め落とすことができず。家康は和睦に持ち込みます。外堀を埋めてもよいという約束をしますが、徳川方はどさくさに紛れて内堀まで埋めてしまいます。これによって大阪城は丸裸状態です。

 

1615年、豊臣方が浪人や武器を集めて戦の準備をしている、とまたもや家康が難癖をつけて大阪夏の陣へと突入します。

 続きは次回へ。