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武将の名言!

 

 

織田信長       臆病者の目には敵は常に大軍に見える。

             必死に生きてこそその生涯は光を放つ。

 

豊臣秀吉     戦わずして勝ちを得るのは、良将の成すところである。 

           人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。

           やるべき事が明確であるからこそ、日夜、寝食忘れて没頭でき

           きる。

 

徳川家康    人の一生は重荷を背負うて遠き道を行くがごとし。

          己を責めても人を責めるな。

          勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば害その身に至

          る。

          世に恐ろしいのは勇者ではなく、臆病者だ。

 

伊達政宗    物事、小事より大事は発するものなり。油断すべからず。 

          まともでない人間の相手をまともにすることはない。

 

真田幸村    関東勢百万も候へ、男は1人もいなく候

          定めなき浮世にて候へば、一日先は知らざる事に候

 

石田三成    大義を思うものは、たとえ首をはねられ瞬間までも命を大切    

          にして、なにとぞ本意を達せんと思う。

          戦死を好むのは匹夫である。将たる者は、命の危険を逃れて、何

           度も戦いを重ねることこそ本意とするものだ。

 

武田信玄    人は城、人は石垣

          為せば成る、為さねばならぬ何事も。成らぬは人の為さぬなりけ

          り

 

上杉謙信     人の上に立つ者の一言は、深き配慮を伴っていなければなら 

            ない。 軽率な発言はもってのほかである。

 

          人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり

 

        

 

武将の武器! 名刀! 愛刀!

 

本田忠勝   蜻蛉切   天下三名槍と呼ばれた槍 槍の先に飛んできた蜻蛉が   

               真っ二つになったことからこの名前になった。      

 

伊達政宗   鞍切景秀  色の黒い大男を切ったとか、サル(サルはくろんぼと 

               呼ばれていた)ことからこの名になったと言われてい

               る。          

蒲生氏郷   会津正宗

 

上杉謙信   小豆長光      川中島の戦い武田信玄を切り付け、軍配で受け止め

               られるというシーンがあるがその時に使用したと言わ

               れている刀である。

 

細川忠興   歌仙兼定  

 

武田信玄   来国長   

 

石田三成   石田正宗          名刀、正宗が作刀したもの。「切り込み正宗」

                とも言われている。

 

織田信長   義元左文字  桶狭間の戦いで勝利し、信長の所有となる。

 

直江兼次   水神切兼光

 

伊達政宗   燭台切忠光  青銅の燭台までも切ってしまうと言われている刀

 

黒田官兵衛  圧切長谷部  中国征伐の報奨として信長からもらった刀

 

前田慶次  平三角造直槍 穂先から柄末端までの長さが313センチもあ

                   る長大な槍                        

 

浅井長政  浅井一文字 お市の方が輿入れの際に信長から送られた刀。 

               淀殿大阪城落城まで所有していたと言われている。

 

 

 

 

 

 

関ケ原(下)

小山評定を経て関ケ原へ向かう家康。迎え討つための準備を着々と進める三成。二人の調略、謀略は最後まで繰り広げられ、それにかかわる各武将の心理描写が事細かに描かれています。

 

観念的にしか物事を考えれらえない三成は、なぜ豊臣恩顧の大名たちが家康

方に付くのかわからない。頼みの綱である毛利、長曾我部、島津の心をつかめないまま開戦となる。

一方家康も勝ちを意識しながらも、やはり豊臣恩顧の大名たちがいつ裏切るかもわからず、慎重さが目立つ。しかし天下を自分の手中に収めるために実にうまく調略を成功させてゆく。

 

いざ開戦となると三成率いる西軍は兵力の三分の二が動かず、三分の一のみが死力を尽くして戦うことになる。

兵力では東軍が勝っているが、しかし戦況は西軍の、宇喜多大谷部隊の活躍で有利に進む。

 

家康、三成の頼みの綱は松尾山に布陣した小早川秀秋。。。

様々な武将の心理状態が興味深く書かれていてとてもおすすめです!

 

 

 

 

武将の愛馬

仁科盛信        蘆毛馬(あしげうま)

武田勝頼        鹿毛(おおかげ)

長宗我部元親      汗葦毛(あせしげ)

            汗をかいて活躍すると言われていた名馬です。

 

明智秀満        鹿毛(おおかげ)

                                          山崎の戦いで秀吉に敗れ、逃げる際に琵琶湖を泳いだと言わ 

            れている。   

武田信虎        鹿毛(おにかげ)

山内一豊        鏡栗毛太平楽(たいへいらく)

蒲生氏郷        小雲雀(こひばり)

加藤清正        帝釈栗毛(たいしゃくくりげ)

長宗我部元親      内記黒(ないきぐろ)

 島津義弘        膝突栗毛(ひざつきくりげ)

            人間の年齢で83歳まで生きたと言われている。

森長可         百段(ひゃくだん)

            金山城の階段を百段駆け上ったと言われている。

武田信玄        黒雲(くろくも)

            とても気性が荒く武田信玄にしか乗りこなせかったと言う        

 

織田信長        白石鹿毛(しろいしかげ)

            伊達輝宗から献上された馬

豊臣秀吉        奥州驪(おうしゅうぐろ)

 

上杉謙信        放生月毛(ほうしょうつきげ)

            武田信玄との一騎打ちで乗っていたと言われている。

 

徳川家康        白石(しらいし) 

            関ヶ原の戦いの際に乗っていたと言われています。

 本多忠勝        三国黒(みくにぐろ)

            徳川秀忠より拝領、関ヶ原の戦いで死亡

豊臣秀頼        太平楽(たいへいらく)

真田信繁        真田栗毛(さなだくりげ)

          

高杉晋作!!

 

天保10年8月20日長州藩高杉小忠太の長男として生まれた。

嘉永5年長州藩の藩校明倫館に通う。

安政4年吉田松陰の私塾松下村塾に通う。久坂玄瑞とともに村塾の双璧と称される。

安政5年藩の命令で江戸へ遊学。大橋訥庵の大橋塾に入門

文久2年、藩の命令で上海へ渡航

清がアヘン戦争等の影響により欧米の植民地になりつつある実情を目にし、日本の現状に危機を抱く。

文久3年奇兵隊結成,下関戦争、敗北。

元治元年 禁門の変をきっかけに第一次長州征討。

長州藩主の謝罪、三人の家老の切腹により戦うことなく長州藩の敗北。

元治2年、藩命により谷潜蔵と改名

慶応2年坂本龍馬の仲介により薩長同盟が成立。

第二次長州征討が始まる。長州海軍総督として長州軍5000の兵で幕府軍10万と戦い勝利する。

 

慶応3年4月14日結核のため桜山にて死去。

享年29歳。

 

 高杉晋作の名言

 

今さらに なにをかいわむ 遅桜

故郷の風に 散るぞうれしき

先生を 慕うてようやく 野山獄

 

戦いは

一日早ければ

一日の利益がある。

まず飛びだすことだ。

思案はそれからでいい。

 

辞世の句

『おもしろき こともなき世を おもしろく』

 

 

 

坂本龍馬!!

天保年11月15日~慶応3年11月15日

 土佐で生まれる。

 

嘉永元年小栗正信が開いた小栗流の道場に入門。

嘉永6年、江戸へ遊学。千葉周作北辰一刀流桶町千葉道場に入門

ペリーの黒船艦隊が浦賀に来た際には、品川の浜川砲台の警備にあたる。

文久元年に武市瑞山らによって『土佐勤王党』を結成し竜馬もこれに参加した。

翌年の文久2年、土佐藩を脱藩し江戸へ向かう。

江戸で勝海舟と出会い海軍操練所へ入所する。

 

1865年長崎にて海援隊の前身となる亀山社中を結成。

日本初の貿易会社ともいわれている。

 

1866年1月8日、竜馬の仲介により薩長同盟が成立。

同年1月23日寺田屋事件が発生。伏見の幕府の役人に襲撃されるが、高杉晋作からもらった拳銃で応戦、左手を負傷するが、薩摩藩邸に逃げ込み難を逃れる。

この後、薩摩にて妻のおりょうと療養。

これが日本初の新婚旅行とも言われている。

 

1867年6月、新国家の基本体制を示す船中八策を作成。

慶応3年10月14日大政奉還の成立

慶応3年11月15日、京都の近江屋で中岡新太郎とともに三条制札事件について話していたところ、何者かに襲撃され殺害される。

享年31歳

 

竜馬の有名な言葉

世の中の人は何とも言わば言え、我がなすことは我のみぞ知る』

 『日本を今一度せんたくいたし申候』

『人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある』

 

 

 

豊臣秀吉 小田原攻め!

天正10年(1590年)

豊臣軍21~22万  北条氏政・氏直軍5万~8万 (兵数については諸説諸々あります)

豊臣秀吉は四国、九州を平定し天下統一まで残すは東北の伊達、関東の北条のみとなっていた。

発端は、天正17年10月秀吉の『惣無事令』を破り北条方の家来、猪俣邦憲が真田家の支城であった名胡桃城を奪ったことがきっかけである。

翌年3月豊臣秀吉出陣。

総勢21~22万の大群で陸だけでなく、海からも小田原城を囲み兵糧攻めへと持ち込んだ。

この年の5月には東北の伊達政宗が秀吉に服属し、小田原攻めに加わる。

小田原城は城や城下町を堀や土塁で包み込む『総構え』という城郭構造となっていて、その距離は9キロにも及んでいた。

秀吉が小田原城を眼下に一望できる石垣山城を築城、これを本陣とした。

実際は80日あまりで築城されたが一夜で作ったように見せ、ここで茶会などを開いたため北条側の戦意を一気に喪失させた。

 

黒田官兵衛が講和にあたり、小田原城無血開城

北条氏政切腹北条氏直高野山へ謹慎させられる。

これにて事実上、豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられた。

 

 北条氏政辞世の句

 雨雲の おほえる月も 胸の霧も はらいにけりな 秋の夕風
我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば